くるくるばたばた

主に東方SSの解説や感想と、稀に漫画とかラノベとかその他。

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
「博麗霊夢と幸福論」おおざっぱに覚え書き

※ついったーから転載

幸福論での紫を、二次創作者という意味もひっくるめた私達、という立場と対比する見方は一つあるとして、……するとどうなるんだっけ

えっと逆か。紫と照らし合わせて私たち自身を見るんだな。そうすると幸福論は二次創作者への絶望を現している本だと気づく(一足飛び

幸福論で語られている話の中に霊夢さんの自己は存在しないわけで、すなわち私達が書くSSにも霊夢さんの自己は存在しないのでして、……ってかんじだっけ?

一回性っていうのは紫=私達の救いを考える上で使った言葉なんですか?

幸福論の紫がゴールにたどり着くことが無いのはなぜか。それは、既にゴールを通り過ぎているから。スタート地点がゴールなので。

一回性という言葉にこだわるのはなぜか。それは、二回以上だと無限とイコールになってしまうから。どのような霊夢さんでも霊夢さんになってしまうから。どのようなものでもあるというのはどのようなものでもないのと同じであって、だからそれこそ「れいむ」って書いただけの風船でも何も問題ない。

壱=無限ですね。壱=無限であることがこの作品における紫の救いの無さになっている。なぜなら霊夢さんは零にいる。

うーん、あれ? なんか話の展開の仕方を間違った気がする。

おいしかった。うしまとめ。流れ的に、霊夢さんがいないからこのお話は絶望のお話なんだ最悪だーって言いたそうに見えるかもだけど、いや、実は、これはこれで問題ない。どのような霊夢さんも霊夢さんとしてありのまま受け入れる、それでいい。事実、紫は幸福だ。

外から見たら「霊夢さんいねーじゃねーか!」ってなるけど、「れいむ」って書かれた風船を変わらず愛することができるなら何も問題は無いんだ。

では何が問題になるのかというと、私たち自身が問題になるんだ。幸福論において、私たちと似た立場に置かれた紫。紫は幸福だ。では、私たちは?

わたしたちは「れいむ」と書かれた風船を愛することができるのか? という話なのです

できるのなら、幸福論における紫と同じで、何も問題ない。しかし、それに疑いを抱いてしまったとき。君たちの作品の中に霊夢はいるのか? いないだろう? ではどこにいるんだ? ”どこにもいないだろう?”

どうやらかつての私は、その問いかけを以って、幸福論の呪いと呼んでいたらしい(追記:その問いを私たちに突きつけること、この紫を見せることでそれに気づかせるということが呪いね

ちなみに、幸福論世界において、幸福論の紫にとっての霊夢さんは、「いる」と思われます。ほんの七行だけ記されている、ごく当たり前の日々を過ごし、ごく当たり前に幸福に暮らし、どこぞの人間と結ばれ、子を為して、少しずつ大人になり歳を取って、人間のままで息を引き取った霊夢さんが。

あの紫が収束するとしたら、その、霊夢さんのことを思い出して、まあ勝手に消えてゆくんでしょう。(なんとなくミスミソウ最終巻のイメージが浮かんだ

では私達にとってその霊夢さんはいるのかというと、まあそれを見つけることが私にとっての解呪だったわけで……

普段と同じようにイメージしただけじゃないのか、そこには何の特殊性も解としての必然性も無いのではないかと問われると、まあそうなんだけど、そこに他人の認識はたぶん「関係ない」。そこらへんは自分の心に、自分の中の確信に問いかけてみてくださいなという。

(原作の霊夢さんがそうなんじゃないの?)(たぶんその指摘はある面でとても正しい)

スポンサーサイト

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。