Kanon 最終回視聴を終えて
最終的に下した判断は、「保留」
幸いにも原作が現在手元にあるので、暇があればやってみて、そして気が向けばアニメ版についてはちゃんと書こうかと。
今のところの印象は、なんとなくちぐはぐな感じ。ハヤテにおける西沢さんの話と同じように、なんだか自分の中で解釈がごちゃごちゃしてるような。
よそのブログさんをいくつか回ったりもしたのですが、自分が解釈する上でヒントになりそうなものはあまりなかったなーというのが正直なところ。でも一箇所、なんだかきゅぴーんとくるのがあったので、紹介。
(HID Blogzineより)
なんだかきゅぴーんときました。なるほどです。
最終話を見て、瞬間的にはマイナスの方向の感想しか持てなかったのですが、なんとなくでっかい見落としをしているような気がしてきたですよ。
ではそういうわけで、ちょっと原作やってくるかもしれません。
自己解釈シリーズで書いてたことが的を射ていたのか確かめつつ、何か新しい解釈が浮かべばここに書くかも。でもとりあえず、Kanonについてはこれくらいでいったん終了。なんだかんだで楽しめたのです。
幸いにも原作が現在手元にあるので、暇があればやってみて、そして気が向けばアニメ版についてはちゃんと書こうかと。
今のところの印象は、なんとなくちぐはぐな感じ。ハヤテにおける西沢さんの話と同じように、なんだか自分の中で解釈がごちゃごちゃしてるような。
よそのブログさんをいくつか回ったりもしたのですが、自分が解釈する上でヒントになりそうなものはあまりなかったなーというのが正直なところ。でも一箇所、なんだかきゅぴーんとくるのがあったので、紹介。
「うぐぅ」の本当の願いは、「大好きな人にずっと笑っていて欲しい」でした。
そのために、栞が言っているように「病気の女の子を治すことも、事故にあった人を救うことも、怪我をした友達を治すことも」できました。
では、なぜ、自分は目覚めてはいけなかったのでしょう。
その答えが「渡されなかったカチューシャという現実」と「渡したはずのカチューシャという幻」にあるんですね。
祐一は「渡したはずのカチューシャという幻」を選んでいました。
弱い心が潰れないように。
思い出を傷つけないために。
だから「うぐぅ」は、大好きな人に笑っていてもらうために「渡したはずのカチューシャという幻」を演じるしかなかったんですね。
でも、それは、所詮幻であることに違いないでしょう。
「うぐぅ」は、このままでは、大好きな人の笑顔さえも幻になってしまうと感じたのに違いありません。
それに祐一が気付いて現実を受け入れたことで、最後のピースが埋まったのです。
(HID Blogzineより)
なんだかきゅぴーんときました。なるほどです。
最終話を見て、瞬間的にはマイナスの方向の感想しか持てなかったのですが、なんとなくでっかい見落としをしているような気がしてきたですよ。
ではそういうわけで、ちょっと原作やってくるかもしれません。
自己解釈シリーズで書いてたことが的を射ていたのか確かめつつ、何か新しい解釈が浮かべばここに書くかも。でもとりあえず、Kanonについてはこれくらいでいったん終了。なんだかんだで楽しめたのです。


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